西安 (シーアン) XIAN 転送

西安 (シーアン) XIAN : 

中国、渭水盆地(関中盆地の中心)の中にある陝西省省都。経済的重要性から大幅な自主権をもつ副省級市。 <天津新港から、1,400㌔> 総面積10,108平方㌔、市区1,166平方㌔、総人口830.54万人、市区人口(2007年)423.5万人。9市区(蓮湖区、新城区、碑林区、雁塔区、灞橋区、未央区、閻良区、臨潼区、長安区)、4県(高陵県、藍田県、戸県、周至県)を管轄。

周囲を山西省内蒙古自治区寧夏回族自治区甘粛省四川省湖北省河南省に囲まれている。関中平原の中部に位置し、北に渭水が東西に流れ、南に「終南山」がそびえ、秦嶺山脈が東西に走る。人種は、漢の他、回、満、蒙古などの少数民族

温帯大陸性気候で、年平均温度は13度。高原乾燥気候で北部の黄土高原部分は標高800〜1,300㌔で、省全体のおよそ45%を占める。50〜150㌢の深さの黄土に覆われたこの地帯を、黄河が切り裂くように流れる。綿花・麦などの農牧業地で、稲、黍、桑、タバコの葉の生産も盛ん。また、地下資源も豊富で石炭、機械、石油、電気機器、紡績、化学、製薬など多くの産業・工業も比較的盛ん。食べ物は餃子が名物。西安空港は国家一級空港で、同空港所属の威陽空港は、西北地区最大の航空センターで、改築、拡張工事中。

80万年前には「藍田猿人」が生息し、20万年前には「大茘人」、7千年前には「半坡人」が居住していた。中華文明発祥の地の一つで、古称は長安。古代より政治の中心地として西周から秦、漢から隋、唐の都城と十数の王朝の都として千年の歴史を有す古都である。シルクロードの出発点として繁栄し西域の珍品が集まり、多くの異国人が闊歩した国際貿易都市であった。

1369年(洪武2年)、明朝は元朝の奉元路を廃止し西安府を設置、これが西安の名称の初見である。1928年、初めて市制が施行され省轄市としての西安市が成立した。1948年には国民政府行政院轄市に改編、中華人民共和国成立後は陝甘寧辺区轄市、西北行政区轄市、中央直轄市、計画単列市と改編が続き、1954年に陝西省都、副省級市となり現在に至る。

西暦630年から200年間に渡って19回も遣唐使が日本から派遣され、持ち帰った唐の文化は、日本に大きな影響を与えた。平城京平安京は唐の長安西安)を模倣した物である。2004年西安の西北大学が遣唐使井真成」の墓誌を発見したと発表し話題を呼んだ。

中国六大古都の一つだけに歴史的見所も豊富で、72の歴代の帝王陵墓が散在し、国家歴史文化名城に指定され、世界各国からの多くの観光客が訪れる。観光ポイントを簡単にまとめると、

●『秦始皇陵』: 臨潼区の東方5㌔、下河村の近くにある秦の始皇帝「嬴政(在位BC246〜BC210年)」の墓で、高さが55.05㍍で、周囲は2㌔ある。

●『秦始皇陵兵馬俑叢葬坑』: 「秦始皇陵」の東にあり、秦の始皇帝の巨大な副葬坑。有名な秦朝の宿衛軍を模して作られた6千体以上の等身大の兵馬の陶塑。一万体余の陶製衛士は歩・弩・車・騎に分れ、実戦用の兵器を身につけ、東を向いている。秦の始皇帝陵の一部として1987年、世界遺産文化遺産)に登録された。発掘されて世界を驚かせたのは1974年のことであるが、地域の住民の話では、以前から水を枯らす「化け物」等として、その存在は薄々知られていた。一人の農民が井戸を掘ろうとして偶然見つけたのがきっかけで本格的に発掘が開始された。その当人は現在、博物館の名誉副館長である。

●『藍田猿人遺址』: 藍田県の陳家窩村と公王嶺にあり、紀元前73万年頃の猿人遺址。

◎『半坡遺址』: 市の東郊、滻河東岸の半坡村の北部にある、紀元前5000〜4800年頃の遺跡。住居址45、周囲の柵2、貯蔵穴200余、陶窯6、墓200余、生産用具・生活用具1万点余が発掘されている。

●『阿房宮遺址』: 西安市街西方約7.5㌔の阿房村一帯にある。秦始皇帝は咸陽の宮城が狭小になった為、77万人を動員して渭河南岸の上林苑に造営(BC212年)から造営を開始。始皇帝死後も二世の「胡亥(在位BC210〜BC207年)」が造営を続けたが、「楚項羽」により焼かれた。

●『周鎬京遺址』: 西周都城の遺構で、澧河以東「阿房宮遺址」以南、斗門鎮以北の長安県普渡村一帯にある。「周武王」が殷を亡ぼすと、澧河の東岸に「鎬京」を造営し、対岸に「文王」の「豊京」と相対した。

●『漢長安城遺址』: 市街西北5㌔にあり、前漢の都であり、劉邦(在BC206〜BC195年)が秦代の興楽宮を改修して「長楽宮」と改称し、檪陽から遷都。「恵帝(在位BC195〜BC188年)」の元年に城壁を築いた。

●『長楽宮遺址』: 「漢長安城遺址」内にあり、「劉邦」が秦代の「興楽宮」を改修してBC202年「長楽宮」と改称、檪陽から遷都。「恵帝」が元年に城壁を築き、以後「長楽宮」は太后の居住になる。

●『未央宮遺址』: 「漢長安城」の西南部、西安門内にあり、「劉邦」のときに造営し、四十余りの宮殿台閣から成り、前漢・新(王莽)・西晋前趙前秦後秦西魏北周〜隋初まで八王朝の行政の中枢であった。

●『建章宮遺址』: 「漢長安城」の西部にあり、漢代(BC104年)の造営。現存するのは、前殿と太液池の遺構。

●『青竜寺遺址』: 市の東南郊、鉄炉廟村の北の高地にあり、空海・円行・円仁・円珍・慧遠・円載・宗睿らが修学した所。隋代(582年)の創建で「霊感寺」と云ったが、唐代(711年)に「青竜寺」と改称、北宋代(1086年)に廃される。

●『興慶宮遺跡』: 市の和平門外、咸寧路の北の「興慶公宮園」にある。唐代の玄宗が即位する前に兄弟と住んでいた邸宅で、隆慶池にあったが、離宮(714年)に「興慶宮」と改称し、周辺の寺院や邸宅を吸収拡張して、716年「南内」と命名。唐代末期に朱全忠が昭宗(在位888〜904年)に洛陽への遷都を強要し、興慶宮は破壊された。

●『曲江池』: 市街南方約5㌔の窪地にあり、隋代に宇文緂(555〜612年)が大興城を設計した際、人工的に開削した湖沼である。唐代には、重陽(9月9日)に宴遊を楽しんだが、安史の乱(755〜763年)で破壊される。

●『広仁寺』: 市街の西北遇にあり、清代1705年の創建で、西蔵仏教格魯(ゲルク)派の寺院。西蔵一帯の喇嘛(ラマ)が北京に赴く為の宿泊地であった。

●『翠華山』: 市街南方40㌔にある、「終南山(別名、中南山・太乙山)」の支峰で、山中の谷口に漢武帝が太乙神を祭った、太乙宮の遺構があるので「太乙山」とも云う。山中の谷口に太乙宮(BC109年)の遺構がある。

●『西安碑林』: 市の三学街にあり、北宋代(1087年)に設けた碑石の収蔵地。

●『大慈恩寺』: 市南東郊外約4㌔にある仏教寺院で、住持の三蔵法師玄奘三蔵」(600〜664年)ゆかりの寺。唐の高祖(在位618〜626年)が母親の冥福を願って創建。その故地は、唐朝の都、長安城においては、左街の晋昌坊に当たる隋の大興城にあった無漏寺(一説に浄覚寺)。その規模は、子院(塔頭)10数院を擁し、建築物は総数1,897間、公度僧だけで300名という大寺であった。牡丹の名所としても知られ、それを詠んだ多くの漢詩が知られている。寺中には、王維や呉道元らの絵画も収蔵されている。

●『大雁塔』: 大慈恩寺内にあり、唐代建築を代表する高さは7層64㍍の「大雁塔」が、慈恩寺の住持「玄奘」が652年にインドの西域から持ち帰った仏像や経典を保管し、仏典の翻訳をする為、高宗(在位626〜649年)の援助で同年建立。当初は5層であったが、長安年間に耐火煉瓦で方形七層の楼閣式の塔にし、その後、更に十層にした。熙寧年間に戦火で八層から十層が破壊されたが、後に二度にわたり修築された。最上層まで登ることが可能。雁が菩薩の化身とされ、群れから地上に落ちて死んだ1羽を、埋葬したことが名前の由来。第1層には、仏菩薩の線刻画や「大唐三蔵聖教序」(褚遂良書)及び、高宗撰の序記の2石碑が収蔵されている。

●『大薦福寺』: 市の南郊外にある仏教寺院。684年(文明元年)、高宗の追善の為に武則天が建立した「大献福寺」がその始まり、隋代には煬帝の晋王時代の邸宅があった。706年(神龍2年)、「翻経院」が設置され「義浄三蔵」が仏典の漢訳に当たり、合計20部の経典を当院にて翻訳している。当寺は華厳宗との関係が深く、「雲花寺」と共に長安における華厳教学の聖地とされた。玄宗朝には、密教を中国に伝えた金剛智三蔵が730年(開元18年)から741年(開元29年)の約8年間、当寺に住し、大曼荼羅灌頂道場を建立し、また密教経典を漢訳した。

●『小雁塔』: 「華厳塔」とも呼ばれ、唐代に大薦福寺境内に建立された磚塔である。当初は15層88㍍あったが、しばしば地震などによって崩壊し、宋代以降の修復により現在の13層、高さ43㍍の姿になった。逸話によると、成化末年(1487年)に起こった地震で、塔に反対側が見える程の亀裂が走ったが、正徳末年(1521年)の再地震でほぼ元に戻り、ひと晩で塔が復旧したと記されている。

●『清真寺(西安大清真寺)』: シルクロードを語る中国文化とイスラム文化の結集。市の鼓楼の西北方向に位置する化覚巷にあり、人気の旅行スポットになっている一方で、今でも回族を中心とした中国ムスリムの信仰の場としての役割を果たしている。742年(唐朝の玄宗時代)に創建された中国最古のモスクである。後に何回か改築され現存している物は明朝建築風になっている。中近東などにあるモスクと違い、イスラム風の配置、アラビア文字などによるイスラム風の装飾はなく、風格はほぼ中国建築式で、モスクのシンボルとして重要なドームも無く、ミナレットも独自の設計である。

●『大興善寺』: 市街南方2.5㌔にあり、晋代(265〜289年)の創建。隋代にインド僧、那連提黎耶舎、闍那崛多、達摩笈多が相次いで密宗を伝える為に身を寄せ、唐代にもインド僧、善無畏、金剛智、不空が経典を訳出し、長安仏典三大訳場の一つとなる。日本人僧「一行(673〜727年)」も天文・数学の研究に大きく貢献した。

●『興教寺』: 市の南郊20㌔の長安区少陵原にある仏教寺院である。唐代の樊川八大寺院の一つ。創建は669年(総章2年)で、玄奘の遺骨を葬るために建てられた。玄奘三蔵の遺骨を保存する五層の舎利塔が寺内にある。その外、玄奘の弟子の「窺基」、「円測」の舎利塔もある。

●『坑儒谷』: 市の西南10㌔の洪慶村にあり「秦始皇帝」が「儒生」を生き埋めにした処で、衛宏の「詔定古文尚書序」によると「秦既に焚書するも、天下の改更せし所の法に従わざるを恐る、而して諸生の到る者拝して郎と為せば、前後七百人、云々」とある。

●『鴻門』: 市の東方約5㌔の鴻門堡村にあり、東は戯水に接し、南に高原を負い、北は渭河に臨む。紀元前207年(秦二代)頃、鉅鹿で秦軍を殲滅し、関中に入った「項羽」がここで「劉邦」を招いて、世に云う「鴻門の宴」を開いた。

●『驪山』: 市街東方25㌔、県城の南にある。秦嶺山脈の支脈で、海抜800㍍余り、東西約5㌔、南北約3㌔、山上に東繡嶺・西繡嶺という峰があり、西繡嶺の「老君殿」は唐玄宗楊貴妃が契りを結んだ「華清宮」の長生殿のあった所。山頂にある台で、周幽王が「褒娰」を笑わせる為に烽火をたいた所と云う。

●『華清池』: 臨潼区の南、「驪山」の西北麓にある楊貴妃ゆかりの別荘地。陜西省の有名な温泉で泉温は43℃。「秦始皇帝」が神女の怒りに触れ、唾を吐きかけられ、腫れ物が出来、許しを乞うと「この湯で洗え」と告げられたと云う伝説から「神女湯」と云う。644年(唐代)に「湯泉宮」を設け、671年「温泉宮」と改称、更に747年拡張して「華清宮」と改称。玄宗皇帝は(在位712〜756年)毎年ここで、楊貴妃(719〜756年)を伴い、冬を過ごし淋浴を楽しんだと云う。

●『重陽宮』: 県城西方10㌔、祖庵鎮の北にあり、道教全真派の開祖「王重陽」は仙人呂洞賓が化身するのに出会って仙術を会得したと云う。

●『楼観台』: 県城東南20㌔の秦嶺の麓にある。老子道教の「道徳経」を講じた台。

●『陝西歴史博物館』: 1991年にオープンし、3,000点もの逸品を集めた西安最大の見所。

●『陝西省博物館(碑林博物館)』: 陝西歴史博物館の展示品以前の資料が展示されている。

●『漢陽陵』: 漢代の第4代皇帝・景帝の墳墓と博物館。

●『咸陽博物館』: 西安の周囲12㌔を囲む城壁、明代の文廟を博物館にした。