隋大興城と唐長安城遺跡


西安隋大興城と唐長安城遺跡の写真
隋大興城と唐長安城遺跡
 隋の文帝楊堅は581年に帝位についた後、龍首原南坡で新しい都すなわち大興城の建設に取りかかりました。大興城の名称は楊堅は帝位につく前は大興公に封じられていたことに因んで付けられました。隋大興城の設計は隋代の有名な建築家である宇文悒が行い、彼は北魏の都だった洛陽や東魏北斉の都だった南城の長所を取り入れて大興城を設計しました。大興城は立体の階層構造の特徴があり、東西が完全な対称で、宮城、皇城、城壁の3つで構成され、城内の大通りは広く、整然としています。南北の11本の大通りと、東西の14本の大通りが城内の交通の主要な幹線を構成しています。大興城には2つの市場があって、東が都会、西が利人と呼ばれ、皇城の東南と西安にそれぞれ対称にありました。この2つの市場が手工業や商業の集中地区でした。618年に唐王朝が成立すると、大興城は長安城と名前を改めました。唐長安城は基本的には大興城の規模を受け継いでおり、大興城として建設された部分の一部を少し拡張しただけです。唐長安城の大きな宮殿は3つあります。太極宮は唐初期の政治の中心で、ここで皇帝は臣に接見し、天下に号令を発してしました。大明宮は三大宮の中で最も雄大な宮殿で、太宗李世民とその父李淵によって建てられ、高宗から唐末までの約200年間の政治の中心でした。興慶宮は玄宗が即位する前の邸宅で、玄宗時代の政治の中心であり、楊貴妃の遊楽地でもありました。現在は長安城の宮城、皇城、城郭の遺跡を見る事ができます。 現在の玉祥門の南にある「西王台」は宮城の南壁の遺跡です。南と西の壁にはそれぞれ唐皇城の城壁が一段ずつ残っています。 現在の西安鉄道職業学校と山門口村には小さな土壁があって、これは北壁と南壁の遺跡です。