大夏武烈帝嘉平陵

大夏 世祖赫連勃勃嘉平陵
赫連勃勃(?−435)姓は劉、字は屈子。匈奴鉄弗部、十六国時代の夏国の創建者。赫連勃勃は勇猛で、馬術、弓術と智謀に長け、砂漠の北の雄を称し、早くから後秦の姚興に帰順して、姚興の深い信任を得ていた。407年、後秦を裏切って、兵を挙げ、大夏天王と称し、名前を赫連勃勃と改名した。413年に黒水の南に都を造営して統万城とと名付けると同時に後秦から投降した将軍王買を策士に付けて国家制度を整備した。赫連勃勃は生まれつき残虐で、簡単に人を殺していた。兵器を作った後に職人は必ず殺し、死者は数千人と伝えられる。また、いつも城壁の上に弓や剣を持って 立ち、目障りに見える者を殺し、いさめる者がいれば舌を切った後に首をはねていた。417年、東晋長安を包囲して後秦が滅びると、東晋が去った後に南下して長安を占領した。425年、赫連勃勃は病死し、武烈皇帝のおくり名、廟号世祖として、嘉平陵に埋葬された。赫連勃勃の正確な埋葬地は不明であるが、延川県東南60里の白浮図寺前、延川県稍道川郷古里村の東1.5キロなど数説がある。近年、白浮図寺遺跡に村民が簡単な廟を建て、中に赫連勃勃の塑像を置いた。
住所:延川県稍道川郷古里村の東 電話:開放時間:入場料: 
普通の観光所要時間:約40分間