陝西省皇帝陵編

中国墓泥棒 墓に閉じ込められSOS 転送

“墓穴堀った”墓泥棒…墓室に閉じ込められ警察にSOS=陝西 中国陝西省渭南市富平県で11月末、唐代の古墓に侵入して文化財などを盗もうとしていた男2人が墓室内に閉じ込められていたことが分かった。2人は通報を受けた警察に救助された。警察は容疑者の身柄を拘…

兵馬俑近くに2000席の大劇場、 運営に米ブロードウェイ企業(30日) 転送

世界遺産に登録されている中国西安の兵馬俑近くに、2000席の大劇場が2014年春にオープンする。ここで上演される始皇帝の伝説を描いた劇に、米ブロードウェイ企業のノウハウが投入され、中国だけでなく海外からの観光客の動員を狙う。

秦の始皇帝陵で「青い石段」=初の発掘、竜の模様も−中国 転送

【北京時事】中国陝西省西安市郊外にある秦の始皇帝(紀元前259〜同210年)陵のうち、寝殿遺跡のある東部で回廊式建造物が出土し、その付近で青色の石段が発掘された。竜のような模様も描かれていた。国営新華社通信が26日までに伝えた。 専門家は、…

兵馬俑 転送

兵馬俑とはそもそも陝西省にある秦の始皇帝の陵墓周辺に埋葬された兵士や馬をかたどったものをさす。1987年秦の始皇帝陵の一部として世界遺産に登録された。兵馬俑は西安から東に30キロ離れた臨潼県にある、秦の始皇帝陵の副葬坑である。7,000以上の等身大の…

中国秦始皇帝の兵馬俑、「百戯俑」20点以上発見 転送

【新華社西安】記者が6月9日、中国の秦始皇兵馬俑博物館から得た情報によると、半年以上の発掘作業を経て、始皇帝陵「百戯俑」坑内で形状が多様な「百戯俑」20点あまりが新たに発見された。破損は深刻であるものの、始皇帝陵と兵馬俑の文化・芸術研究に…

秦始皇帝陵から墳墓99基見つかる、殉葬の貴妃たちか―陝西省

17日、陝西省にある秦始皇帝陵でこのほど99基もの墳墓が見つかり、始皇帝の後宮の貴妃が埋葬されているのではないかと見られている。 012年6月17日、中国新聞社によると、陝西省にある秦始皇帝陵で99基もの墳墓が見つかり、始皇帝の後宮の貴妃が埋葬されてい…

始皇帝の兵馬俑に項羽の放火跡――咸陽  転送

秦の始皇帝の陵墓から、6月9日までに大規模な放火の焼け跡が発見された。秦を滅ぼして劉邦と覇権をかけて争った項羽(前232〜前202)が放火したのではと推測されている。 焼け跡が見つかったのは、2009年から発掘調査が行われている兵馬俑坑の1号坑。200㎡の…

新たに兵馬俑110体を発掘、秦の始皇帝陵  転送

【6月13日 AFP】中国陝西(Shaanxi)省西安(Xian)郊外にある世界遺産、秦の始皇帝陵の遺跡の第1号坑で、新たに110体の兵馬俑が発掘された。遺構がある秦始皇兵馬俑博物館(Qin Shihuang Terracotta Warriors and Horses Museum)が11日、発表した。 3年に…

陝西省

陝西は西周(紀元前1046−771年)時代初期にその名がつけられた。春秋戦国時代は秦に統治されていたため、略称は「秦」。後世の人々は陝西北部、関中、陝西南部をまとめて、「三秦」と呼んだ。陝西省は中国内陸部の中央、黄河の中流に位置し、総面積が約21万…

宝鶏(転載)

マイナー宝鶏 西安外国語大学 加藤 誠 先生 宝鶏は3区9県から成り、陝西省で西安、咸陽に次ぐ大きな市だ。この辺りは周、秦の発祥地で、史跡も多い。 法門寺は、今でこそ立派に修復されて参拝客や観光客で賑わっているが、私が訪問した1986年は、「八重葎…

季陵(周王)

周王季歴 周王季歴は古公亶王の第三子で、古王の跡を継いで王となった。彼は商王武乙に朝見して土地や財産を得ることを許され、商王の支持下で周辺の部族を征服した。商王帝乙によって伯侯に封ぜられ、号を周公と名乗った。しかし、周が力を付けてきたことに…

北斉后主高続陵

周穆王陵

王陵(?-前181)咸陽市秦都区 沛県の出身である王陵は秦末の農民蜂起の時に数千人の部下を率いて河南省の南陽付近で活動していたが、楚漢戦争のときに劉邦に帰属した。漢王朝建立後、安国侯に封ぜられ、右丞相になったが劉邦の死後、呂太后により罷免さ…

漢杜陵(宣帝劉詢墓)

↑漢杜陵(宣帝劉詢墓)の写真 劉詢(前91−前49)、字は次卿、父は史皇孫、母は王夫人。劉佛の死後、18歳で皇帝となり、26年在位して病死すると杜陵に埋葬された。漢宣帝杜陵は西安市雁塔区曲江郷三兆鎮の南にある。劉詢は武帝の曾孫であったが、出生…

隋文帝泰陵

◎翻訳ソフトで、訳した文章で、意味がご分からない場合はxiaojunn@gmail.comまでお気軽にお問い合わせ下さい:隋の文帝の楊堅(541〜604)、 陝西西華の曇る人。北周の時に父の爵を踏襲して、隋の皇帝の岳父になりました。彼の娘は北周の宣帝の皇后です。静…

秦穆公陵

穆公 穆公嬴任好(?−前621)は徳公の子で成公の弟。穆公は百里奚と蹇叔に任用して国力は東の晋と並ぶほどに発展した。前645年に晋が攻めてきたが逆に晋の惠公を捕らえた。しかし、穆公の応夫人が惠公の姉であったため、惠公を釈放して晋の領土の黄河…

前秦世祖苻堅陵

前秦世祖苻堅陵 後漢末期以来、社会は戦乱によって不安定となり、西北辺境地域の匈奴、羯、氐、羌、鮮卑などの少数民族は内陸に移動して中原の漢族と雑居するようになった。西晋晩期になると支配階級による政権争いのために“八王の乱”が起こり、各少数民族は…

前秦高祖苻健原陵

前秦高祖苻健原陵 苻健(317−355)は恵武帝苻洪の第三子、で母は姜氏。350年、恵武帝が麻秋に毒殺されると、苻健は麻秋を殺して恵武帝の後を継いだ。苻健は後を継いだ直後に秦王を捨て東晋の臣下となった。さらに苻健は弟の苻雄(苻洪の第四子)と…

黄帝陵

有熊氏 黄帝 黄帝は姓は姫、号は軒轅氏または有熊氏。父は小典氏。寿丘(今の山東省曲阜市)に生まれ、軒轅之丘(今の河南省新鄭県)に住み、死後橋山(今の陝西省黄帝 県)に葬られた。黄帝は五、六千年前の原始社会の姫部落の首領で、今の陝西省北部から河…

大夏武烈帝嘉平陵

大夏 世祖赫連勃勃嘉平陵 赫連勃勃(?−435)姓は劉、字は屈子。匈奴鉄弗部、十六国時代の夏国の創建者。赫連勃勃は勇猛で、馬術、弓術と智謀に長け、砂漠の北の雄を称し、早くから後秦の姚興に帰順して、姚興の深い信任を得ていた。407年、後秦を裏切…

後秦文桓帝偶陵

後秦高祖姚興偶陵 姚興(366−416)字は子略。南安赤亭(今の甘粛省の隴西)の人、羌族。姚萇の長男で姚萇を継いで後秦と君主となる。(在位は394−416)前秦では太子の舎人で後秦建国後に太子となった。姚萇は出征する度に姚興を長安に残して留守…

後秦武昭帝原陵

後秦武昭帝姚萇原陵 姚萇(330−393)字は景茂、南安赤亭(今の甘粛省の隴西)の人。羌族。姚弋仲の子で後秦の創建者。姚萇の祖先は、代々羌族の酋長で、苻堅の時に前秦に帰属して益都侯に封ぜられ、何度も軍功を立てた。383年、苻堅が淝水の戦いで…

成陵(北周文帝の墓)

北周 世祖文帝宇文泰成陵 宇文泰(507−556)字は黒獺、鮮卑族。十六国時代、宇文部は鮮卑族の慕容部冊の攻撃を受けてモンゴル草原から中原に入り、漢族と雑居するようになった。北魏末期になると、各民族は武装蜂起し、軍の統率者や王公貴族も機会に乗…

欽陵(西魏廃帝の墓)

西魏 廃帝元欽陵 元欽(525−554)は元宝炬の子。551年1月、西魏文帝元宝炬が亡くなると元欽が後を継いだ。しかし、大権は宇文泰の手中にあり、元欽には何の権限 もなかった。552年、西魏は各地に兵を送り、領土を広げた。しかも、西魏軍の規律…

章陵(唐文宗李昴の墓)

唐文宗李昴章陵 唐文宗李昂章陵、富平県の西北10キロメートルの西峰郷の天乳山上にある。李昂(809〜840年)は穆宗の子、敬宗の弟。李昂は宝暦2年12月、宦官の王守澄等に捕らえられ、827年から840年に死ぬまで軟禁された。《富平県志》による…

豊陵(唐順宗李誦の墓)

唐順宗李誦豊陵 唐順宗李誦豊陵は富平県の東北17キロメートルの雷村金瓮山上にある。李誦(761年〜805年)は唐徳宗李適の子。李誦は太子になるとすぐに王叔文、王丕と共に政治変革を計画した。貞元21年(805年)正月に帝位を継ぐが、同年8月に宦…

元陵(唐代宗李豫の墓)

唐代宗李豫元陵 唐代宗李豫元陵は富平県西北15キロメートルの檀山上にある。陵園内には、石柱が1つ、2対の石獅子(残骸)、3対の石馬(残骸)があるだけで規模は小さい。 住所:富平県西北15キロメートルの檀山上 開放時間:24時間 入場料:0元(無料)…

定陵(唐中宗李晃の墓)

唐中宗李顕定陵 唐中宗李顕定陵は富平県鳳凰山の獅子窟村の北、県城の南13キロメートルにある。李顕はまたの名を哲とも言い、高宗李治の第7子で母は武則天。680年、章懐太子に代わって皇太子となり、684年には皇帝となった武則天によって退位させら…

西魏文帝永陵

西魏 文帝元宝炬永陵 元宝炬(507−551)、北魏節閔帝の孫、京兆王元愉の子、母は楊氏。530年に南陽王となり、北魏孝武帝の時に、太保、尚書令となった。534年、孝武帝は関中に身を寄せたが、まもなく孝武帝が殺害され、宇文泰は元宝炬を帝に擁立…

光陵(唐穆宗李恒の墓)

唐穆宗李恒光陵 李恒(795−824)は憲宗の第三子で母は懿安皇太后郭氏。宦官によって擁立され、穆宗と称したが、穆宗の生活が乱れていたために、政治は腐敗し、権力闘争が激しくなって行った。824年、中毒で30歳で亡くなり、光陵に葬られた。光陵…