漢中…張騫 困難克服「絹の道」開拓

 古代中国の漢王朝時代、アジアの東西を結ぶ交通路「シルクロード」を切りひらいた張騫ちょうけんは、中国ではコロンブスにも匹敵する探検家として知られる。

 砂漠を越え、幾多の困難を克服した意思の強さは、古来「兵家必争の地」とされた交通の要衝、陝西省漢中で培われた。

 漢中の空港から車で20分の城固県。張騫が生まれ、死後、葬られた地だ。大通りには「張騫路」の名が付けられ、街中に「張騫精神」の標語が掲げられていた。中心部を離れ、田園風景を抜けると、「張騫記念館」が見えてきた。

 敷地の奥には、こんもりと土で覆われた墓がある。高さは約5メートル。1938年に調査が行われ、出土物から考古学的にも「本物の張騫の墓」だとされる。

 張騫が歴史の表舞台に躍り出たのは、時の皇帝、武帝が紀元前141年に即位して数年後のことだ。武帝は北方の異民族、匈奴に貢ぎ物を送る長年の融和策に満足せず、匈奴に故郷を追われ、中央アジアに移った「大月氏だいげっし国」と同盟しようと、使節団の派遣を決定。トップに選ばれた張騫は当時、20〜25歳だったのではないかと、張騫記念館の崔紀軍館長(44)は推測する。「つらい西域への旅は、相当な体力がなければ無理。武帝は若い人材を好んで起用していた」

 

張騫の像(張騫記念館で)
 張騫ら100人余りの一行は出発後、匈奴の捕虜となってしまう。史書によれば、10年間に及ぶ抑留生活の間に結婚し、子供も授かったとされる。だが、張騫は任務を忘れずに脱出。西へと向かい、ついに目的地に到着した。同盟こそ成立しなかったが、中央アジアの様々な文化に触れ、帰国の途についた。再び匈奴に捕らえられたものの、匈奴内部の混乱に乗じて脱出して帰国した。武帝に現地の事情を報告した時、出発から実に13年の月日がたっていたという。

 記念館の近くに、博望という農村がある。張騫が功を得て「博望侯」に封ぜられたことに地名が由来するという。ここで張騫の末裔まつえいとされる人々に出会った。「65代目」の農民、張華忠さん(60)が、地元に伝わる少年時代の張騫の逸話を教えてくれた。「水泳が好きだったそうだ」「誰かがいじめられたりすると、助けたそうだ」
 

 張騫の像を前に談笑する農民ら。「65代目」の張華忠さん(左端)は、「張騫の子孫であることを忘れるな」と言われて育ったという(中国陝西省漢中で)
堅忍不抜の志

 張騫の性格は、史書にも「堅忍不抜の志と寛大な心をもち、よく人を信じた」と記されている。博望の人たちの話に史料の裏付けはないが、興味深く聞いた。県政府で勤務する「67代目」の張利軍さん(39)は、11歳の長女に、「困難を恐れるな。張騫の子孫なのだ」と言い聞かせているという。
 

 張騫の墓に向かって一礼する「67代目」の張利軍さん
 張騫の墓を含め、中国やカザフスタンなどのシルクロード関連の遺跡群は、今年6月、国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産への登録が決まった。中国の習近平シージンピン政権は、シルクロードの名を冠した経済戦略も提唱する。だが、東西交流史の雄大なロマンに触れると、そうした俗世の動きが遠い世界の話のように感じられる。泉下の張騫に一礼しつつ、厳かな気持ちを味わった。(文と写真 比嘉清太)
 張騫の墓に向かって一礼する「67代目」の張利軍さん
張騫(?〜紀元前114年)
 大月氏国への使者として派遣され帰国して以後は、匈奴との戦闘にも参加。作戦中の不手際を問われ、一時は死罪を言い渡されたこともある。その後、再び中央アジアへの使者として起用され、現地の良馬を携えて帰国したとされる。ザクロやブドウ、ニンニク、キュウリなどの物産は、張騫がシルクロードを開拓した結果、中国に伝わったと言われる。