「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・咸陽 転送

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・咸陽
 山南水北を陽と云う。今いるこの地は渭水の北、九嵕山(きゅうそうさん)の南にあって、山水共に陽である。故に咸陽と名付けられたという。もと秦の都があったところであり、秦の始皇帝が天下を統一すると大いに宮室を営み、渭水の両岸に亘った。名付けて阿房宮と云う。項羽が関に入ってこれを焼き、火は三月消えなかったと云われるからどれほどの偉観であったか想像するのにあまりある。それなのにその遺跡は今は尋ねるべくもない。漢の武帝元鼎三年、ここを改めて渭城という。人口に膾炙している唐王維の陽関三畳の曲は、このところを詠じたものである。ただし今の県治は秦都の西三十里にあり、明洪武年にこれを遷し、景泰三年に初めて城を築き、嘉靖年間にさらに増修したものである。

*陽関三畳・・・「元二の安西に使いするを送る」と云う題の有名な詩のことを云う。分かりやすくて調子も良い詩で私も好きである。

  渭城の朝雨 軽塵を浥(うるお)す
  客舎逭逭 柳色新たなり
  君に勧む 更に尽くせ一杯の酒
  西のかた 陽関を出づれば故人無からん