西魏文帝永陵

西魏 文帝元宝炬永陵
元宝炬(507−551)、北魏節閔帝の孫、京兆王元愉の子、母は楊氏。530年に南陽王となり、北魏武帝の時に、太保、尚書令となった。534年、孝武帝は関中に身を寄せたが、まもなく孝武帝が殺害され、宇文泰は元宝炬を帝に擁立し、元号を大統と改め、都を長安に置いて西魏を開国した。し かし、北に突厥、南に梁、東に東魏と囲まれていてその前途は多難だった。元宝炬と宇文泰はこの状況の下で、関中振興、富国強兵などの改革を実行して不利な情勢を変えようとした。まず、漢族の有識者を登用し、国家財政、農業新 興、朝廷枢密事務の改革を断行し、城門の外には筆と紙を置いて庶民の意見を提起させた。これらの改革により、関中地区の農業生産は急速に発展し、、経済 力、軍事力も大いに強化された。537年10月、高歓率いる東魏の20万の大軍が西魏を攻撃したが、宇文泰は1万の精兵て迎え撃って、沙苑(今の大茘県南)の戦いで一挙に高歓を打ち負か した。その後、宇文泰が率いる軍は東に進み、山西、河南を占領、さらに南の梁が内乱になると四川、湖北地域を攻略して領土を拡大した。551年3月、元宝炬は長安の乾安殿で病死し永陵を埋葬された。元宝炬は宇文泰に操られた名ばかりの皇帝ではあったが、宇文泰とは息が合っていて、元宝炬時代の西魏は発展していた。西魏文帝元宝炬永陵は今の富平県東留古郷何家村の東北にあり、墓の高さは13m、周囲は230mある。墓の西側には高さ1.9mの石獣があったが、現在は 西安碑林石刻館にある。また、皇后の乙佛氏もここに陪葬されている。
住所:富平県東留古郷何家村の東北
開放時間:24時間 入場料: 観光所要時間:約3、40分間