成陵(北周文帝の墓)

北周 世祖文帝宇文泰成陵
宇文泰(507−556)字は黒獺、鮮卑族。十六国時代、宇文部は鮮卑族の慕容部冊の攻撃を受けてモンゴル草原から中原に入り、漢族と雑居するようになった。北魏末期になると、各民族は武装蜂起し、軍の統率者や王公貴族も機会に乗じて兵を挙げ、青年宇文泰も父や兄と共に武装蜂起に参加したが失敗して北魏に接収 されて関中に入った。その後、部下や甘粛省の豪族の支持の下で、宇文泰の勢力は急速に大きくなり、関西大都督に任命されて関中の軍事統帥となった。534年、北魏の孝武帝が殺害されると、宇文泰は元宝炬を帝位に立てて西魏を建立した。元宝炬と宇文泰は息が合っていて、互いに協力して西魏の富国強兵を進め、沙苑では東魏を再起不能なほどに大敗させた。551年、元宝炬が死ぬと、宇文泰は皇太子元欽を帝位に立てた。553年、元欽は宇文泰殺害を謀ったが、事前に秘密が漏れて宇文泰に帝位を剥奪され、元宝炬の第四子の元廓を帝位に立てた。556年、宇文泰は今の淳化県西北の云陽宮で病死し、その翌年に子の宇文覚が恭帝を廃して、自らを周天王と称して、北周を建てた。同年、宇文覚は父宇文泰を太祖のおくり名で成陵に埋葬した。文帝成陵は現在の富平県宮里郷宮里小学校の中にある。
住所:富平県宮里郷宮里小学校の中 電話: 開放時間:24時間 
入場料:0元(無料) 普通観光所要時間:約30分間