泰陵(唐玄宗李隆基の墓)

玄宗李隆基泰陵
李隆基(685−762)は唐睿宗李旦の第二子。710年、韋后が中宗を毒殺し、皇太后の身分で執政し、さらに睿宗李旦を殺そうとたくらんでが李隆基は太平公主と協力してクーデターを起こして韋氏とその側近を排除した。しかし、宮廷の内部闘争はその後も激しくなるばかりで、太平公主は韋后に代わって横暴が目立つようになり、李隆基と太平公主の関係が緊迫してきた。712年6月、睿宗は太上皇となって帝位を李隆基に譲った。713年7月、太平公主とその一味は政変を謀ろうとしたが、事前に玄宗李隆基に知られてしまい、政変は失敗し、太平公主も殺された。初期の玄宗の統治は太宗の政策を受け継ぎ、優秀な人材を登用し、賞罰を公正に行っていて、後の世から「開元盛世」と賞賛された。しかし、後期はほとんど政務に無関心で、政務を李林甫にまかせて楊貴妃に夢中になっていた。やがて政治が腐敗し、755年に安史の乱が発生すると玄宗は四川に逃れたが、馬嵬驛で兵士が反乱を起こして楊貴妃に死を賜った。その間に息子の李亨が即位して、玄宗太上皇となった、757年、玄宗長安に戻ってきたが、762年、長安神龍殿で亡くなり泰陵に葬られた。唐玄宗李隆基の泰陵、蒲城県の東北15キロメートルの金粟山、今の保南郷敬母寺村にある。蒲城県志》によると陵墓の敷地面積は26.7ヘクタール、入口から陵まで2.5キロメートルとなっている。実際に測ってみると東西3142.5メートル、南北112.5メートルである。現存する文化財は4つ門と6つの石獅子、石柱2つ(1つは破損)、9対の石人像、5つ石馬、3つ立像、一角獣と飛馬が1つずつ、駝鳥などがあり、精巧で大きく、1100年の風雨にさらされても尚、大部分は完全な状態である。陵内には玄献楊皇后陪葬墓以外に、宦官の高力士の墓がある。高力士墓碑(大暦12年、西暦777年に建立)は蒲城博物館に保存されている。
住所:蒲城県の東北15キロメートルの金粟山、今の保南郷敬母寺村
開放時間: 24時間 入場料:0元(無料) 普通観光所要時間:約40分間