後秦文桓帝偶陵

後秦高祖姚興偶陵
姚興(366−416)字は子略。南安赤亭(今の甘粛省の隴西)の人、羌族。姚萇の長男で姚萇を継いで後秦と君主となる。(在位は394−416)前秦では太子の舎人で後秦建国後に太子となった。姚萇は出征する度に姚興を長安に残して留守を守らせた。393年に苻登が後秦を攻めていた時に姚萇が病死したが、姚興は姚萇の死を隠し、翌年苻登を破ってから帝位に付いた。姚興は22年在位したが、政務に勤め、民の生活を安定させた。姚興は即位すると戦乱で売られた奴婢を解放し、農業生産に従事させるなど、経済発展を重視した。また、仏教と儒学を奨励し、広く寺院を建て、クチャから高僧クマラジュウを呼んだ。399年になると、東晋を攻め、洛陽を陥落させ、領土を拡大して行った。しかし、連年の出征のために増税を行い、さらに階級による矛盾が激化するのに加え、太子の姚泓は気が弱く、子の姚弼は横暴で政局が不安定になってきた。姚弼は416年に謀反を起こして殺されたが、姚興はその翌年病死し、文桓皇帝のおくり名、廟名高祖として遇陵に葬られた。姚興の死後、姚泓が帝位を継いだが417年、東晋劉裕によって後秦は滅ぼされた。遇陵は現在の高陵県東葯恵郷麦張村付近にある。