葯王山(石碑、書道、書法、石窟)

葯王山

昔の耀州、現在の耀県城から東に1.5キロ、西安から120キロ離れた所に海抜1000mの葯王山があります。 葯王山は唐の時代、”磐玉山”と呼ばれ、5つの山峰が連なり、風景秀麗です。南北朝の時代からは仏教の、唐の時代からは道教の信者がここで盛んに宗教活動を行ったため、数多くの古物古跡が現存します。孫思貌(581−682)は耀州孫家源村の普通の農民の家に生まれ、七才から学びはじめ、二十才から荘子などの諸学に耽り、豊富な知識を身につけてからは漢方薬の研究に手を染めました。彼は雑草などを利用し薬を作りましたが、出来あがった薬はまず、自ら飲んで試しました。漢方薬の奥義を極めるため、彼は磐玉山に隠居し、研究を続けながら真剣に患者の治療に携わりました。彼は唐の時代以前の医学知識も学び、民間に伝わる秘伝を集め、自分の治療経験を中心に総括し、652年に【千金方】、そして【千金翼方】をそれぞれ三十巻ほど著しました。【千金方】には八百種類の薬物及び五千三百種もの処方が記されています。日本の【医心方】及び朝鮮の【医方類聚】などの医学書は皆これを参考にして書かれたと言われています。孫思貌は人間の健康と人類の医学事業を発展させるために大きく貢献し、後世の人々は尊敬の念を込めて彼を「葯王」と称賛しています。孫思貌の医学著作のあらすじは60基の大石碑に刻まれています。そのうち、婦人と小児の病気を治療する方法は五基もの石碑に記載してあり、婦人、小児の病気治療を中心に研究したことがよく現れています。石刻像は仏像、石棺、石鼓文、墓誌など、四種類に分けられます。これらは計82基あり、北魏の時代から明の時代までの間に彫刻され。芸術水準の高い作品が多い。特に南北朝時代北魏の太和二十年(496年)に彫刻された【姚文遷造像碑】は有名です。高さ3.4m、幅0.7m、厚さ0.3m、上下2つの龕に分け
られ、上部に座像が一尊、その左側に線彫の供養人が五人、右側に一名侍立し、下部に三尊の座像、そして石像の背面と両側に「道民姚文遷供養」などの銘文が刻まれています。 その彫刻手法は古樸渾厚で文字はとても力強く、生き生きとした形態でデザイン的にもすばらしく、昔から中国「三絶」と称賛されました。「北周武成造像碑」は高さ1.75m、幅0.8m。厚さ0.3mで石碑正面の仏龕には道教創始者老子と仏の座像があります。また、線彫した几何紋、四層の塔、飛天、騎馬供養人、主人に傘を広げている人夫像などもあります。右側上部に刻まれた題名により北周時代の明帝の武成元年(559年)に彫刻された石像であることがわかります。道教と仏教、この二大宗教の聖像を一基の石碑に並べて作られた作品は稀少です。「観音立像」は隋代に造られたもので、高さ1.8m、蓮華台に立ち、四面に小仏像が彫刻されています。「座像」は高さ3.18m、胡座をかく形態で右手が壊れていますが、像の両側に刻まれた題名からすると、隋・唐の時代に遺物に属します。「四尊浮彫像」は唐代のもので、一枚の石版の上方に三尊立像が並び、高さ0.6m、頭に宝相冠を被り、身にはショールをまとい、右手を上げ、左手を下げています。そして下方に小仏像があります。「延昌寺宗派図碑」は高さ1.1m、幅0.5m、厚さ0.15m、上部が半円形でそこに延昌寺宗派図と流派の名前が刻まれています。背面の仏龕の中には一尊仏像、二尊菩薩と二名の僧侶像があります。両側には天王が法器を手に守り立ち、四飛天が殿堂に向かっています。仏龕の下部には二頭の獅子が香炉に向かい、その両側に十の人物像が並んで立っています。そして一番下の小仏龕には一尊の立像があります。それぞれ線彫で、唐の時代の作風と思われます。葯王山に保存されている石刻像の彫刻手法から察すると、北周時代以前の造像は一仏二僧で釈迦多宝像が多い。それ以後は一仏二菩薩二僧に代わり、仏龕の両側に線彫の天王と大力士の像があります。隋の時代以後の造像は天王と大力士が仏龕の中に彫刻され、その背面及び下部には浮彫と線彫の獅子や神獣が多く見られます。これらの石刻造像をよく観察すると、仏教が中国で時代に推移に伴ない、引き続き発展変化していたことがわかります。葯王山にはその他にも孫思貌が漢方薬を洗った池や薬研も残り、特に南庵に保存されずらりと並んだ元代の壁画は見るほどに興味深く、当時への思いを掻き立てます。

住所:耀県城東1.5キロ 電話:0919−6588929 開放時間:8:00−18:00 入場料:20元 普通の観光所要時間:約1時間