漢杜陵(宣帝劉詢墓)


↑漢杜陵(宣帝劉詢墓)の写真

劉詢(前91−前49)、字は次卿、父は史皇孫、母は王夫人。劉佛の死後、18歳で皇帝となり、26年在位して病死すると杜陵に埋葬された。漢宣帝杜陵は西安市雁塔区曲江郷三兆鎮の南にある。劉詢は武帝の曾孫であったが、出生直後に祖父の房太子が武帝を呪ったという疑いをかけられ自殺、父母も殺害され、劉詢も獄中に入れられた。(巫蠱の乱)その時、一人の官吏が二人の女囚に乳を飲ませるようにしたので劉詢は生き長らえ、その後、朝廷の大赦によって劉詢は皇族の身分を回復した。昭帝の死後、霍光らは昌邑王の劉賀を皇帝に擁立するつもりだったが、劉賀が淫乱で節度が無かったために18歳になっていた劉詢が皇帝に迎えられた。在位中の劉詢は民心を大事にし、労役の負担を軽減し、貧民を救済したり塩や鉄の価格を下げたりした。外に対しては西域の36国と協力して匈奴を破った。在位中の24年間は国境は安定し、国内も豊かになったので「中興の主」と称される。前49年、未央宮で亡くなったが、咸陽の前漢陵区には陵を作らなかった。父である史皇孫に代わって皇帝になった昭帝との序列上の問題で陵を作る適当な場所がなかったためという説がある。