陝西省皇帝陵編

景陵(唐憲宗李純の墓)

唐憲宗李純景陵 李純(778−820)は順宗の長男で母は王氏。805年、李純は宦官の倶文珍などの擁立されて皇帝になったが、在位中は謀反が多かった。8020年、宦官の陳弘志等に殺害されて景陵に葬られた。景陵は蒲城県の東北15キロの三合郷義隆村…

泰陵(唐玄宗李隆基の墓)

唐玄宗李隆基泰陵 李隆基(685−762)は唐睿宗李旦の第二子。710年、韋后が中宗を毒殺し、皇太后の身分で執政し、さらに睿宗李旦を殺そうとたくらんでが李隆基は太平公主と協力してクーデターを起こして韋氏とその側近を排除した。しかし、宮廷の内…

惠陵(唐譲皇帝李憲の墓)

唐譲 皇帝李憲惠陵 李憲は睿宗李旦の長男で玄宗李隆基の兄である。李憲は皇帝にはならなかったが、弟の李隆基が皇帝として葬り、墓も惠陵の号を贈られた。現在、石碑が1つ、石馬、石獅子が一対ずつ残っている。 住所:蒲城県 開放時間:24時間 入場料:0…

橋陵(唐睿宗李旦の墓)

唐睿宗李旦橋陵 唐睿宗李旦橋陵は蒲城県の西北15キロメートルの金熾山、今の坡頭郷安王村にある。李旦(662年-716年)、唐高宗李治の子で684年から690年と710年から712年まで在位した。614年、武則天は中宗李顕を廃して李旦が23歳で…

鄭桓公陵編

鄭恒公 鄭恒公は周歴王の子で周宣王の異母弟。名は姫友。前806年に宣王によって鄭(現在の陝西省華県)に封ぜられた。幽王の時代に周王室が混乱すると、恒公は民を今の河南省檣陽北と河南省密県に移して国を建て た。しかし、前771年に周が滅びたとき…

周幽王陵編

幽王墓は臨潼県の東15キロ、代王鎮宋家村にある。 周幽王姫宮涅は姫涅は西周亡国の君。宣王の後を次いで王となったが太子の宣臼を廃するなど、周朝の宗法を乱して朝政は混乱し、諸侯の信任を失って行った。幽王は褒姒を笑わせるために驪山から烽火を挙げて…

秦始皇帝陵編

秦の始皇帝陵 始皇帝凌.jpg (7948 バイト) そのスケールは世界第三位、驪山の北麓にある。高さは47m、一見普通の小高い山に見えるが、実は盛り土の墓である。始皇帝は紀元前259年の生まれで、名は瀟政と言う。13歳で即位して、22歳で自ら政務を執…

漢文帝覇陵編

↑西安漢文帝覇陵の写真 漢覇陵(文帝劉恒) 漢文帝劉恒(前203−前157)は劉邦と薄姫の子である。恵帝の死後、呂后が国事行為を代行し、呂氏一族の専横が激しくなったが、呂后の病死すると丞相陳平、大尉周勃らはただちに呂氏一族を誅滅し、恵帝の異母…