名人墓(戦国−漢)編

霍去病墓(茂陵博物館)

霍去病墓(茂陵博物館) ↑霍去病墓(茂陵博物館)の前景写真 ↑霍去病墓(茂陵博物館)の石刻品・石彫り品---牛の像 ↑霍去病墓(茂陵博物館)の石刻品・石彫り品---匈奴の兵士を踏みつけている汗血馬の像「馬踏匈奴」 ↑霍去病墓(茂陵博物館)の石刻品・石彫…

蕭何墓

李固墓

李固墓 李固墓は城固県の西14キロメートルの李固廟村にあり、省クラスの文化財保護になっている。墓は高さ7メートル、長さ14メートル、幅10メートル。《水経注》によると、宋代以前には2つの碑があったが、現存しない。現在3つの碑があり、右側は宋の乾道…

馬超墓祠

馬超墓祠 馬超墓は勉県の諸葛武侯祠の東500メートルの所にある。馬超(176−222)字は孟起、三国の右扶風茂陵(今の興平の東北)の人。涼州の豪族の家の出身。後漢の末、父の馬騰に付いて軍を蜂起し、その後馬騰の兵を引き継いだ。建安16年(22…

武候墓(勉県)

武侯墓 武侯墓即ち諸葛亮の墓は勉県定軍山の西にある。諸葛亮、字は孔明(181-234年)は琅邪陽都(今の山東省沂南)の人で劉備の主要な策士だった。病気をおして出陣し、軍中で死に、遺言により漢中を定軍山に葬られた。武侯墓の付近の山々は起伏が激…

蔡倫墓

蔡倫墓・祠 蔡倫の墓・祠は洋県龍亭鋪街の南で200メートルにある。蔡倫(西暦?-121年)、後漢の桂陽人(今の湖南省彬州市)、字は敬仲。彼は前漢を総括して麻の繊維を製造した経験から、製紙技術を改善して、樹皮、麻、ぼろ切れ、古い魚網を原料に紙を作…

蒙恬墓

蒙恬(?-前210)楡林地区櫻徳県 秦の名将軍。祖先は斉の出身。祖父蒙驚以来、蒙家は代々秦に仕えた。蒙恬は匈奴との戦いや長城修築などの功績で秦の統一に貢献したが、扶蘇とともに自殺させられた。筆を発明したとも言われている。 住所:楡林地区櫻徳県…

班固墓

班固(32−92)宝鶏市扶風県 班固は字は孟堅、後漢の歴史家で扶風(今の咸陽市渭城)の人。54年、父班彪が病死するとその遺志を継いで「漢書」の編纂を始めた。62年に国史を改ざんしているという中傷によって投獄されたが弟の班超が明帝に直訴して許…

馬援墓

馬援(前14−49)扶風県 馬援墓は扶風県の西部の伏波村にある。墓は土を盛って作られていて、高さ10m、直径は10mの円錐形をしている。墓の前には「漢伏波将軍墓」の碑がある。馬援は字は文淵。扶風県茂陵の人。新王莽の末年に新城大伊となったが、…

蘇武墓

蘇武墓 蘇武墓は武功鎮の1.5キロメートルの龍門村にある。蘇武、字は卿、前漢の杜陵人、漢の天漢元年(西暦100年)匈奴に赴いたが勾留される。匈奴の貴族に様々な脅しを受けたが、彼は投降に応じず、決して屈服しなかった。後に解放されて北海に羊を放牧した…

陸賈墓

陸買(漢)咸陽市永寿県 陸買は楚の出身で劉邦に仕えた弁舌に長けた大臣である。漢王朝が成立すると南越(現在の広東、広西)に使者を送って漢王朝に従わせた。呂后が権力を掌握している時期には周勃や陳平と連絡を取り合って呂氏を狙っていた。文帝時代にも…

王翦墓

王翦(秦)渭南地区富平県 咸陽の東北、頻陽県の出身。子の王貢、孫の王離と「三代秦の将軍」として活躍する。白起とともに、「史記」巻七三に列伝がある。 住所:渭南地区富平県 電話: 開放時間:24時間 入場料:0元(無料) 普通観光所要時間:約30…

楊震墓

楊震(54−124)華陰市 楊震は字は伯起、後漢の大臣で弘農郡華陰(今の陝西省華陰市)の人。若いころは貧しくて、農業をしながら母を養い、学問に励んでいた。50歳頃に始めて出仕し、荊州刺史・蓬莱太守などを歴任し、117年に入朝して司徒となり、…

司馬遷祠墓編

司馬遷祠とお墓 司馬遷祠とお墓は、陝西省韓城市芝川鎮の南門外の黄河西岸の梁山の東麓にある。司馬遷は、中国古代の有名な歴史学家であり、 文学家者でもある。ずっと後世まで残っている著作《史記》があって「史聖」と呼ばれている。司馬遷祠は晋代の永嘉4…

蔡文姫墓編

蔡文姫墓 蔡文姫墓は藍田県三里鎮蔡王村にある。蔡文姫(昭姫)、陳留園(今の河南省の杞県南)の人。蔡ユンの娘、彼女は博識があり、音楽に通じていた。初め河東促道に嫁いだが、夫が亡くなってからは、実家に戻った。漢末の大乱で、董卓の捕虜となり、匈奴…

戦国藺相如墓編

藺相如(戦国)墓、西安市臨潼区劇河の西、臨馬道の北 戦国趙の名臣、刎頚の交わりを結んだ将軍廉頗とともに趙を支え、秦も攻撃することができなかった。藺相如の墓の場所については諸説あるが、この墓は清康熙時代の『臨潼県志』に記載されていることが根拠…